大判例

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東京高等裁判所 昭和48年(人ナ)2号 判決

請求者 甲野太郎

拘束者 乙山夏子 外一名 〔人名仮名〕

被拘束者 甲野春子

主文

本件請求を棄却し、被拘束者を拘束者らに引渡す。

手続費用は請求者の負担とする。

理由

請求者は「拘束者両名は被拘束者を釈放し、請求者に引渡せ」との判決を求めた。

請求者の請求の理由および拘束者らの答弁(拘束の事由)は、それぞれ別紙記載のとおりである。

拘束者らは疎明として、拘束者乙山夏子の本人尋問の結果を援用した。

よつて案ずるに、本件申立書添付の戸籍謄本、審判書謄本および乙山夏子の本人尋問の結果ならびに審問の全趣旨によつて明らかにされた事実は次のとおりである。

被拘束者(以下春子という)は、請求者甲野太郎(以下太郎という)を父とし、拘束者乙山夏子(以下夏子という)を母として、昭和四四年一月七日出生した女児である。太郎と夏子は当時夫婦であつたが、その後協議離婚(昭和四四年九月一八日届出)し、夏子が春子の親権者となつて、その手もとでこれを養育していた。しかし昭和四六年六月夏子が拘束者乙山次郎(以下乙山という)と同棲をはじめるに及んで、夏子は太郎に春子の引取を要請し、太郎がこれに応じて同年八月一二日春子を引取り、その後昭和四八年四月二五日まで、その妻甲野秋子(昭和四五年一二月四日婚姻届出)と共に、また姉丙川冬子の協力をも得て、川崎市内の肩書住居で春子を養育した。そして、太郎の申立にかかる親権者変更審判事件について、横浜家庭裁判所川崎支部は、昭和四八年三月一九日春子の親権者を太郎に変更する審判をした。一方夏子は、春子を太郎に引渡したもののすぐにこれを後悔し、再び引取りたい旨丙川冬子に申出て拒まれたのであるが、その後乙山と婚姻(昭和四七年二月一五日届出)してからも、自分の手もとで春子を養育することを望んでやまず、右審判に対して抗告を提起したのみならず、同年四月九日右川崎支部に監護者変更審判の申立をした。そして右抗告審の決定および審判が出る以前である同年四月二五日、夏子と乙山は、日立市内の肩書住居から自動車で川崎市内に赴き、甲野秋子と共に銭湯から帰宅途中の春子を夏子が呼びとめ、逃げるのを追つてこれを抱きかかえ、乙山が秋子の抵抗を振払い、春子を自動車に乗せて自宅へ連帰つた。爾来夏子と乙山は春子を養育しているが、両人の間に子はなく、乙山は書籍等の商人で相当の収入があり、夏子は家事と春子の世話に専念し、春子も夏子になついて平穏に暮している模様である。また、前記抗告事件について同年五月二三日抗告棄却の決定があり、これは確定したが、監護者変更審判事件は目下審理中である。

上叙の事実に基づき本件請求の当否を考える。

(1)  春子は四歳であるから、これを現実に監護している者は人身保護法にいう拘束者に該当する。

(2)  春子を連帰つた当時夏子は春子の親権者であつたが、これより先昭和四六年八月中自己の意思で春子を太郎に引渡し、その時点で監護権の行使を太郎に委ねたものとみられるから、春子の奪取行為を親権の適切な行使とみることはできないし、その行為自体不穏当であることもいうまでもない。そして現在春子の親権者は太郎であるので、夏子が太郎の意思に反して春子を監護する権利はない。以上の諸点からみれば、本件請求は一応理由があるようにみえる。

(3)  しかし、

人身保護法の手続により幼児をその拘束者から解放すべきか否かを決するに際しては、拘束が正権原によるか否かのほかに、現在の拘束状態をただちに変更することが幼児の心身の平穏の保障という一般的要請にかなうかどうかをも考慮する必要がある。換言すれば、幼児が、拘束者のもとで愛情にめぐまれ平和に暮らしており、その状態が社会常識上不自然でなく、かつ早急な変化も予測されない場合に、これを原状に戻すことが当該幼児の心身の平穏を保つ上に有意義であるか否かは、看過すべからざる要件であると考える。

(4)  これを本件についてみると、春子が四歳の女児であること、夏子がその実母であつて育児に専念できる立場にあることおよび乙山に経済力があり一家の生活が安定していることは、いずれも先に認定した事実であるが、これらを総合すると、拘束者らのもとにおける春子の日常は平穏であつて、心身ともに安定した状態にあるものと認められる。したがつて、春子のために現在の状態をただちに変更すべき特段の必要はないと解するのが相当であり、これを変更することはかえつてその心身に悪影響を与えるおそれがあるといつてよい。

(5)  もつとも、太郎と秋子もそれぞれ春子に対して愛情をもち、その生活が安定していることは、上記審判書謄本によつて疏明されているから、春子が父親と母親のいずれに監護養育されるのを相当とするかの判断は容易ではない。しかしかかる事項の判断は、父母双方の性格、職業、家庭事情、生活環境等一切の事情を調査し、現在のみならず将来の状況をも考慮してなすべきものであるから、十分な調査機構を有する家庭裁判所が審理決定することこそ適切であつて、人身保護請求事件を審理する裁判所は、判断時において幼児をどのような状況下におくことがその心身の平穏を維持するに適するか(換言すれば幼児の幸福となるか)の観点から結論を出すにとどめるべく、親権者や監護者を決定するのと同様な観点から判断を下すことは相当でないと思われる。そして当裁判所は既述のように、春子の拘束は妥当な状態で行なわれていると判断するから、前記監護者変更審判事件について管轄家庭裁判所が審判するまでの間は、ともかく現在の拘束状態を維持することが春子の心身の平穏をはかるゆえんであると考えるのであり、右拘束が権原に基かず、かつまた請求者の生活が安定していることも、この結論を左右しないと考える。

(6)  右のとおりであるから、春子を拘束者から解放することは相当でなく、したがつて本件請求は理由がない。よつて人身保護法一六条、一七条、民事訴訟法八九条にしたがい、主文のように判決する。

(裁判官 伊藤利夫 吉江清景 山田二郎)

(別紙一)請求の理由

一、申立人と拘束者乙山夏子は昭和四三年五月三〇日婚姻し被拘束者甲野春子をもうけたが、昭和四四年九月一八日協議離婚し子供の親権者を母乙山夏子と取決めその旨の届出をなした。

ところが乙山夏子は昭和四六年八月一二日再婚の為子供を引取つて貰い度い旨申立人に連絡があり、申立人は同日被拘束者を引取り爾来同女の監護教育をなしてきたものである。

そこで請求者は昭和四六年八月一三日横浜地方裁判所川崎支部に親権者変更の申立をなしたが相手方の住所が日立市にあることが判明し同年九月一三日水戸家庭裁判所日立支部に「離婚後の紛争解決」の調停を申立てたが、相手方不誠意で止むなく取下げ、更めて横浜家庭裁判所川崎支部に親権者変更の申立(昭和四七年(家)第五九〇号)をなし右事件の審判によつて親権者を申立人とする旨の決定を得た。ところが乙山夏子は右審判に対して抗告をなし目下東京高等裁判所に係属中である。(昭和四八年(ラ)第二〇六号)

二、ところで拘束者両名は昭和四七年二月一五日婚姻をなし夫婦であるが、右のように申立人が親権者変更の申立をなし親権者変更の審判があつたに拘らず、拘束者両名は昭和四八年四月二五日午後七時頃、銭湯より帰宅した申立人妻秋子及び被拘束者を申立人住所で待伏せ、乙山次郎に於て、子供の引渡しを拒み抵抗する秋子をおさえつけ噛む等の暴行を加えてこれを抑圧し、乙山夏子が泣きさけぶ被拘束者を拘え無理矢理待たせてあつた自動車に乗せ遭走したものである。

申立人は直ちに中原警察署に連絡し、子供の行方を探したところ、前記場所に居住していることが判明した。

三、申立人は被拘束者を引取つた昭和四六年八月一二日以来監護権を行使し、平穏な生活をしてきたものであり、又家庭裁判所もあらゆる事情をしんしやくし子供の幸福の為親権を申立人に委ねるのが妥当であると審判したに拘らず、実力をもつて被拘束者を拉致しその支配下におさめる等法治国家にあるまじき行為である。すみやかに人身保護法第二条に基きその救済を求めるものである。

(別紙二)拘束者らの答弁

一、請求者と拘束者夏子が離別するに至つたのは、請求者が甲野秋子と関係し、同棲したことにある。

二、拘束者夏子は、被拘束者を抱えて、埼玉県や茨城県久慈郡袋田等において事務員や女中等をして被拘束者が二才六ケ月位になるまで養育していた。

三、昭和四六年八月一二日夏子は、ノイローゼ気味のところから、請求者に被拘束者を引取つてもらつたが、翌日の一三日には早くも思い直して請求者の姉丙川冬子(請求者には連絡方法がなかつたため)に電話で被拘束者春子を返してもらいたい旨哀願し、その後数日間毎日同旨のことを電話で頼んでいる。

四、拘束者夏子は拘束者次郎と昭和四六年六月ごろから同棲するようになつたが、次郎は図書販売業を営み粗収入約二〇万円近くで経済的には安定しており、夏子は専ら家庭内で留守を守ることに専念できるし、一戸建の家であり周辺の環境も請求者方のような騒々しいところではなく、被拘束者のためにも好ましい状態である。

五、請求者は東急バスの運転手であり、日中は勤めている訳であるから、被拘束者の監護養育は未だ子供を生んだこともない二一才の甲野秋子がすることになり、実の母でもなく子供を生み育てたこともない秋子に監護養育させることは、被拘束者春子にとつても、秋子にとつても気の毒なことであると考える。

拘束の日時、場所及びその事由

一、拘束の日時

昭和四八年四月二五日午後七時ころ

二、拘束の場所

請求者住所地前路上

三、拘束の事由

〈イ〉 拘束者乙山夏子の親権に基づく居所指定権を行使したものである。拘束者次郎は夏子に協力しているにすぎない。拘束当時横浜家庭裁判所川崎支部昭和四七年(家)第五九〇号親権者変更申立事件について親権者の変更の審判がなされていたが、右審判については、東京高等裁判所へ即時抗告をしていたので親権者変更が確定していなかつた。

なお乙山夏子は昭和四八年四月横浜家庭裁判所川崎支部へ監護教育権を請求者から乙山夏子に変更されたい旨の審判申立をしており、現在も係属中である。

〈ロ〉 自力救済に及んだ点については、拘束者も望ましいこととは決して思つていないが、次のようなことから止むにやまれず、春子を手許に引取つたものである。

すなわち第一の動機は、昭和四八年一月ごろ、乙山夏子と夏子の母および夏子の妹の三名で、請求者住所近くの風呂屋へ春子の様子をききにいつた際、風呂屋の奥さんから「甲野秋子と春子の間柄はとても実の親子とは思えない。なぜなら秋子は春子に全く手を貸してやらない」という趣旨のことを聞かされたことであり、第二に、証拠として提出する録音テープのとおり、請求者方付近の人々が「子供がかわいそうな状態であるから早く引取りなさい」と勧めてくれたことである。特に昭和四八年四月八日夏子は金子某の妻から「春子ちやんが可愛想でみていられないから」と泣きながら春子の状態を話されたことで、夏子は子供を連れて来たいとの気持ちを強くもつた。そして春子が可愛想な状態にあるという具体的事情については、実の母親に話すのは忍び難いとして話してくれなかつた。結局被拘束者の住所の近隣の人々の話しから、強く気持ちを動かされ、夏子は日夜春子の身の上を心配し、又次郎も見かねて夏子に全面的に協力した次第である。

〈ハ〉 夏子も次郎も昨年秋ごろから数回に亘つて春子の様子を見るため請求人方や丙川方を訪れているが、全く春子に面会させてもらえず、その姿をかいまみることもなかつた。従つて拘束日時の行動についても、拘束者両名は春子の様子をみるため、午后四時半ごろから請求者のアパート前に住む菅原某の妻の協力で菅原方から春子の姿を見たいと待つうちに、春子が床屋から帰つて来る姿を見かけた。ところが秋子はずつとあとから一人で歩つて来ており、春子には全く気を配つていないことが明らかだつた。その後春子と秋子は風呂屋へ行つたが、春子は一人でアパートの方に帰つて来た。しかし秋子はだいぶ後ろからついて来たので、夏子は路上で春子に「春子ちやん」と声をかけた。春子は逃げてアパートの階段の下にしやがみこんでしまつたので夏子は春子の片方の手を引いたところ、請求人と同じアパートに住むと思われる若い女性二人が、春子のもう一方の手を行かせまいとして引いた。そこへ甲野秋子も来たが、その際次郎は両手を拡げて秋子が取り返すのを抑圧したことはある。

結局春子は泣き叫んだが、夏子は春子を抱いて付近に駐車させておいた車に乗りこみ、夏子が運転して、途中で追いついて来た次郎を乗せ土浦市のドライブインまで来た。春子は車が動き出してからは泣きやみ、土浦市まで来た時にはすつかり落ち着いた。四月二五日は土浦の知人宅に泊り、その後拘束者両名方に引取つて養育している。

〈ニ〉 警察からの連絡で夏子の実家でも春子を夏子がつれて来たことを知つて、土浦まで春子を見に夏子の父丁村三郎らが来ていた。

従つて夏子は勿論、夏子の両親、兄弟も春子が戻つて来たことも喜び、又次郎も全面的に協力している。

一方拘束した昭和四八年四月二六日の翌日には菅原さんの奥さんから電話があり、「近所の人たちも春子ちやんが連れていつてもらえて本当によかつた」と言つている旨連絡してくれた。

以上の次第で、「母性喪失」が社会問題となつている折りから、拘束者乙山夏子の行為は母性本能から出た許されるもので又賞賛されるべきものであると考える。拘束者次郎についても、他人の子のために種々の助力をすることは、なかなかでき難いものと考えられるにもかかわらず、よく夏子に協力している。

請求者本人には全く現実の日常生活において春子の面倒をみることができないため、秋子に又姉の丙川冬子に養育の大部分をゆだねざるを得ないこと、春子は未だ四才五ケ月の幼児であることを考えると、やはり常識的なことであるが「子供は母親の手許で」育てられるのが子供にとつて最も幸福であると考えざるを得ない。

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